音楽や図工といった芸術科目は、答がひとつでない数少ない教科である。1つの表現しか認められないのではなく、別の表現にも価値を見出すことができる。1つの答に向かって集約していく他教科と比べ、子どもの個性を認めることができ、広がりを持たせることのできる教科である。しかし、答がひとつでないことが、評価の曖昧さを生み、教師の自信を失わせ、 授業の質の低下を招く方向に働いている可能性も否定できない。ここでは、図工と言う教科を考え、教師はどのように向き合うべきなのかについて考えてみたい。

図工科で教えることと教えてはいけないこと

【教えないことが個性を大切にすることか】
「個性を大切にしたいので自由に描かせます。」などと口にする教師がいる。図工を詳しく勉強してこなかった担任教師だけでなく、美術系大学出身の専科教員にもそのような人がいる。個性を尊重することは大切なことだが、自由にさせて何も教えないというのは明らかに間違っている。そもそも、教えないなら教師はいらない。自由に描いてもそれは既存の力を使っているだけで新しい力を獲得する訳ではない。もちろん一部の優秀な子どもはそんな中でも自分なりの試行錯誤を行い新しい力を身につけることができるかもしれないが、そんな特殊な子のことを論じても仕方がない。ほとんどの子は、こういった課題の場合、それまで身につけてきたことをなぞっているに過ぎない。何のために授業を受けるのか、何のために学校に来るのか、それは、「できなかったことができるようになるため」である。ならば、図工の授業でも、この学習を通じて「新たに子ども達が獲得できる力は何か」しっかり教師が押えておかなければならない。

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【何から何まで教える人達】
教えない人達がいる一方、何から何まで教える人達もいる。構図から使う色、混色する量と色、描く順序、などなど。掛け声をかけて一歩一歩踏み出すように懇切丁寧に指導する。この場合、指導することが明確なので評価もしやすく、スモールステップで学習するので、子どもたちにとっても分かりやすい。そして、なりより、作品の完成度も高い。いいことばかりのようだが、残念ながら全て教えたように見えて、大切なことを指導し忘れてしまっている。それは、創意工夫である。自分で考え、工夫する力を置き去りにしてしまっているのである。結果、クラス全員の絵が同じになってしまう。図工はコピーを作るための教科では決してない。

【図工は職人養成学科でもない】
日本は「ものづくり」の国である。日本は製造の現場で働くすばらしい職人の技術にささえられてきた。その伝統を大切にしたいという気持ちはわかるし、共感できる。木、鉄、土といった身近な材料が職人の手にかかると美しい機能美を持った製品に作り替えられる。このような素晴らしい技術を身につけさせてみたいと考える気持ちは理解できるが、図工科は技術科ではない。自分の思いを形にできるためには技術の習得は不可欠だが、技術の習得を目的とした狭い教科ではないのだ。技術ばかりを追及すると、何時間もかけて磨き続けたり、同じ物を何度も何度も作り直すような授業になっていく。そこには精度はあるかもしれないが創意はない。

【極端な話は蜜の味】
まとめてみよう。図工は「何も教えない」でも「何から何まで教える」のでも、「技術だけを教える」のでもない。教えることを教え、自分で考えさせるべきは考えさせ、必要な技術を習得し、造形的な能力と豊かな情操を身につけていく教科である。極端な話は確かに面白い。しかし、面白いからといって極端な指導を受ける子ども達はたまったものではない。教師に必要なのは、極端に走り過ぎない卓越したバランス感覚なのかもしれない。

【現実的にはどうするか?】
どのような力を付けさせたいかを見極めて題材の指導の流れを考え、それを日々の授業に落とし込んでいくと、その授業のめあてができる。毎時間のめあてがはっきりするとその時間、何を指導し、何を考えさせるか、どのような点に気をつけなければならないかがはっきりしてくる。もし、この話が難しそうに感じたら、教科書を開いてみてほしい。教科書は子ども達のためというより、教師のためのものでもあるのだ。非常によくまとめられているし、取り上げている題材も多岐にわたる。「教科書なんておもしろくない」という人に限って、教科書をよく見てもいない。いくら優秀でも個人が、多くの人の知恵と努力の結晶した教科書に勝れるはずがない。教科書を使って指導していけば、何をどのように教えるべきなのかが次第に分かってくる。当たり前すぎる話なので面白みはないと思うが、バランス感覚を養う上でも指導要領を具体化した教科書は最強のアイテムなのだ。なぜなら、我々教師は指導要領をもとに図工科で身に付けさせるべき力が何なのかを決めているはずなのだから。


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